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2019年4月

備忘録:発病へ至るプロセス

備忘録です。

発病のプロセス、なるほどと思いました。

心身の症状を出すことは大事だし、休むことも大事ですね。

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統合失調症を発症する人たちは、ストレスに対する反応をうまく形成できないようである。

通常、私たちの心身は過剰なストレスに対して警告を発し、心身のシステムが修復不可能になる前に休息をとらせるように働く。

しかし統合失調症になる人たちは、何らかの事情で心身の警告をキャッチすることができない。あるいはキャッチしたとしても休息をとるわけにはいかない事情が存在する。

ここでいう警告とは、発熱であったり、あるいはうつ状態であったりと様ざまな形をとる。

しかし、統合失調症になる人々の場合、発病前にはストレスがかかっているはずなのに、これらの心身の症状が現れないことが多いのである。

そして、ストレスがある限界を「突破」してしまったとき、心身はその柔軟性を失い、消耗を回復できなくなってしまう。

このことは木の枝がある程度の歪力をかけても元に戻る柔軟性を持っているが、極度の歪力をかけると裂けて折れてしまうことに似ている。

このときに周りの者が、その人がストレス状態にいることに気がついて、心身を休ませるように促すことができれば、発症のプロセスを止められる可能性がある。


発病する前には、特徴的な「あせり」がある。

彼らは「一念発起」などの観念を抱き、一気に全面的な解決を図ることで、あせりを解消しようとする。コツコツと地味な解決を積み重ねるという方向には目が向かない。

統合失調症へのプロセスを歩む人は、生き方の微細な修正や、やり直しといった「立て直し」の手段を用いようとしない。彼らは失敗や誤算が重なると「あせり」、そこから一気に解決しようとしてうまくいかずに、さらなる「あせり」の状態に向かっていく。


通常、私たちは「ゆとりのある時期」と「無理の状態」のあいだを往き来しながらなんとか日常生活を送っている。

そして、時折「あせりの状態」へと陥るが、多くの人はここで風邪などの病気に罹ったり、不慮の怪我にみまわれたり、あるいは周囲の者が異変に気付いて助けてくれたりと、何らかの要因が働いてこの先のプロセスに進まずに済んでいる。

体の調子が乱れ、頭痛、悪夢などが起こったり、疲労で眠り込んだり、身体の病気になったりすれば、精神の病気にならない。

これは体の最後の警告である。ここで引き返すべきである。たとえ仕事が溜まっていても。

ここから本格的に病気が始まる。


こうして、ストレスが心身の修復力の閾値を突破すると、自己と世界の関係が決定的に崩壊することになる。

この統合失調症へのトリガーとなる「突破」は一回的なものである。このプロセスが始まると後戻りすることはできない。

しかし変化は内的なものであり、周囲の人はそれをつかみづらく、本人も自覚されることは少ない。

「突破」のあと「発病」までのごく短い期間に、苦しい身体症状が消失し、もう治ったと思えるような静けさが訪れる(いつわりの静穏期)。

本人は、まったく眠れないにも関わらずすごく快調を感じる。しかし不眠状態が2~3日続くと「なだれ」のように崩れて発病する。

『中井久夫との対話』村澤真保呂、村澤和多里 著

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備忘録:回復は元の状態に戻ることではない。

備忘録です。

本職の仕事を変えたことに伴い、絶賛読書中なので、よろしければちょっとお付き合いください。

中井先生の言う「オリヅルラン方式」の適応についての考え方が好きです。

また、回復は「元の状態に戻ることではない」というのはとても重要だと思います。

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『「宇宙」を守ること』

患者さんの独自世界が成長していくこと。

「社会復帰」と称して、彼らをいきなり社会、つまり彼らの苦しみの原因となった場所へと放り込むことは乱暴きわまりないことなのではないか。

患者さんに社会復帰のトレーニングを課すことが「治療」だと思われているふしがある。

欠損した能力を補てんするのが治療ではない。

そんなふうに頑張りすぎてしまうことから「病気」が始まるのではないか。

訓練したらどうにかなるというのではなくて、ゆっくりと何かが溜まってきて、時期が来たらそれがはじけるような。

「オリヅルラン」ってイメージ。弾けて拡がっていって、その先でまた弾けて…。そんなふうに生活は豊かになっていくのでは。

治療者が意図して患者さんのスキルを引き上げようとするのではなくて、患者さんの生活が広がりながら豊かになっていくのを支えるということ。

人にはそれぞれの世界というか「宇宙」がある。

むしろ必要なことは、彼らの「宇宙」に共感する人々が現れて、それが押しつぶされないように守られることが必要。

統合失調症者の人の「社会復帰」というのは、患者さんたちを既存社会の鋳型に入れ込むことではなくて、患者さんの「宇宙」を包み込んで育てるようなことと言える。

「統合失調症はけっして治らない病気ではないけれど、治るために限りないたくさんの障壁のある病気である」

ひたすら社会復帰を目指す身も蓋もない支援では、風当たり強すぎて育つものも育たない。

社会的能力の向上ばかりを目標にする社会復帰観の批判。

寛解過程においても「元に戻る」ことを目標とする治療を根本的に否定。

何らかのきっかけで患者が発病前の状態に戻ったとしたら、それは発病のリスクを抱えた強い緊張状態に逆戻りしたということではないからである。

中井にとっての回復は、患者が元の状態に戻ることではなく、緊張が解け、安心感の中に寛ぎながら、自分の内なる自然が根を伸ばし、葉を茂らせていくことにほかならない。

私たちは一般的に、病気が回復していくプロセスを、発病とは反対のプロセスと思い描きやすい。

統合失調施用の回復のプロセスについても、症状がひとつずつ消えていくプロセスをイメージしてしまいやすい。

しかし中井は、前の状態に逆戻りしようとする治療者や患者の考え方に警告を発している。

以前の状態に戻ろうとすること、以前のような栄光を取り戻そうとすることは、すなわち「無理の時期」「焦りの時期」に舞い戻ろうとすることであり、ふたたび発症のプロセスを繰り返さざるをえないことになるからである。

『中井久夫との対話』村澤真保呂、村澤和多里 著

 

 

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備忘録:強迫性障害が良くなる過程で起こること。

備忘録


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『強迫性障害が治癒に向かう過程における”患者が見えなくなる時期”』

強迫性障害が治癒に向かう過程は強迫観念が意識の中心から外れてゆく過程ということができるが、

その途中で、必ずと言ってよいほど”患者が見えなくなる時期”があって、

その後に患者は飛躍的に改善した姿で再び現れるという不思議な現象にかねて注意してきた。

実際に、患者は通院をやめ、薬を中断し、旅行に出たりするのであるが、

結局、困って戻ってくるか、あるいは何気ない顔で戻ってくる。

従来、これはアクティング・アウト(行動化ー治療場面で言語化するべき事柄をそれ以外の場で逸脱的な行動によって演じること)としてもっぱら否定的にみられてきたのであるが、

症状を語り、聴かれ、そして若干の問答とともに薬物を処方されるという初期治療のマンネリズム(強迫的同一性)からの離脱としてのプラスの意味も考えられる。

これは治療的に活用できることではなかろうか。

その際、戻ってきた時の迎え方が重要であるらしい。

(大学院生 高宣長らの学位論文についての)

『アリアドネからの糸』中井久夫 著

 

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備忘録:意味飽和

備忘録

たしかに毒の溜まる感じ、わかりますね。

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『意味飽和』

文章というものにはすべて、一定時間内にある程度以上の回数を反復して読書すると「意味飽和」という心理現象が起こる。

つまり、いかにすばらしい詩も散文もしらじらしい無意味・無感動の音の列になってしまう。

これはむしろ生理学的現象である。音楽で早く知られた現象である。

詩というのもは一定時間内には有限の回数しか読めない。つまり詩との出会いはいくらかは一期一会である。

それだけでなはい。無意味化するよりも先に、その詩人の毒のようなものが読むものの中に溜まってきて、耐えられなくなる。

『アリアドネからの糸』

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備忘録:感情の開放で終わらせない。

本を読んでいて、せっかく良い箇所があったのにすぐに忘れてしまうので、

備忘録として書き留めておこうと思います。

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『体験の分かち合い』

体験の分かち合いは、座の中心となって話し合う進行役をつとめる人がいて、

最初は、自分はどういう事態だったと思うか、自分はどういう体験を味わったかという事実を話し、

それからどういう感情を味わったかを語り、

最後にまたどういう結果になっているかという順序が良いようだ。

つまり、事実ー感情ー事実という順序で、最後は感情でなくて事実で終えるということが現実に戻るうえで重要なようである。

真ん中の「感情の開放」で終わってしまうと、これは、包帯を当てないで傷口をそのままにして帰すようなものである。


『アリアドネからの糸』中井久夫 著

 

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